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日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)
日本の関東地方の北部、栃木県日光市にある神社である。
主祭神は、江戸幕府の初代将軍である徳川家康を神格化した
「東照大権現」である。
日本全国の東照宮の総本社である。久能山東照宮、上野東照宮とともに
東照宮の三大社に数えられている。
正式名称は地名のない「東照宮」であるが、他の東照宮と区別するために
「日光東照宮」とも呼ばれ、
東照宮の公式サイトにも「日光東照宮」と書かれている。
隣接する仏教寺院である輪王寺は、奈良時代の766年(天平神護2年)に
勝道によって日光山が開山されたことを起源としている。
以来、関東の霊場として崇められ、鎌倉幕府を開いた源頼朝によって寄進された。
頼朝が母方の熱田大宮司家の者を守護に任命して以来、
鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、
東国における宗教的権威を有している。
徳川氏が東照宮を建立したのも、
こうした歴史を背景にしていると考えられる。
輪王寺や日光二荒山神社など2社1寺が、”日光の社寺 “として
ユネスコの世界遺産に登録されています。
JR日光駅と東武日光駅の間にはゲートタウンが形成され、
参拝客や外国人など多くの人が訪れている。
歴史
江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、
徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去しました。
遺族の命により、遺骸は直ちに駿河国久能山に葬られ、
同年中に久能山東照宮が完成したが、
翌1617年、二代将軍秀忠は天海僧正に命じて、下野国日光に改葬した。
日光では同年4月に社殿が完成し(工事奉行は藤堂高虎)、
家康は朝廷から土佐輝大権現の神号と正一位を受け、
4月8日に奥院御廟に移され(5月12日)、家康の一周忌にあたる
4月17日に遷座式が行われました。
移設に際しては、吉田神道と山王神道との間で争いがあったが、
天海は山王一実神道を主張し、
薬師如来は神仏習合の本尊として祀られた。
1634年、三代将軍徳川家光は9月(または10月)に日光神社を参拝し、
1636年の創建21周年には、荘厳な神社とするための大改修に着手した。
総奉行(日光造営奉行)は秋元康長、工事は朔日方大工の小浦宗弘の指揮のもと、
江戸、京都、大阪から集められた宮大工たちによって行われました。
小浦棟梁は、増上寺や寛永寺の建設でも活躍した。
同年、対馬藩主宗の要請で朝鮮通信使が日光に参詣し、
幕府家の政治的威信の場として利用された
1645年、朝廷から「宮」の称号が与えられ、東照社から東照宮と改称された。
「日本の神」「国家の守護神」として、翌年の例大祭から朝廷から奉納され、
奉幣使(日光遠州)が派遣された。
家康は自らの意思で日光に祀られたのである。
金地院崇伝の日記である『本朝国史日記』には、
「遺体は久能山に安置し、(中略)一周忌の後、
日光山に小堂を建てて神として祀るべき」とある。
遺体は久能山で保管し、一周忌が過ぎたら
日光に小さなお堂を建てて神として祀るべき。
家康が目指した「八州の鎮守」は、日本全体の平和を守る守護神でもあった。
家康は、不動の北辰の位置から徳川幕府の安全と
日本の恒久平和を守ろうとしたと言われています。
表参道の延長線上には、寛永寺の旧本堂(根本中堂)がある。
毎年の神事に加え、50年ごとに式年遷宮が行われ、
家康没後約400年の2015年は式年遷宮に指定されている。
社殿に設えられた動物たち
日光東照宮の建物は、さまざまな動物の木彫りで飾られています。
これらの動物の多くは平和を象徴しています。
眠り猫は、今にも飛びかかりそうな姿勢をしていることから、
実は家康を守るために眠ったふりをしていると言われていますが、
[要出典]別の教えでは、「猫も眠るほどの平和」を表しているので、
背中でスズメが舞っていても眠れるのだそうです。
神馬舎には猿を彫った8枚のレリーフパネルがありますが、
これは猿が馬を守る動物であるという伝承から使われています。
この8枚のパネルには、猿の一生が描かれており、
ひいては人間の平和な暮らしが描かれています。
日光の木彫りでは眠り猫に次いで有名な「三猿」(見ざる、言わざる、聞かざる)は、
神馬舎で作られた彫刻のひとつにすぎません。
なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」とは、
「幼少期に悪いものを見ない、言わない、聞かない方が良い」という教えであり、
転じて「自分に都合の悪いことは見ない、言わない、聞かない方が良い」
という意味である。
奥社御前の三具足(燭台、花瓶、香炉)は仏教で採用されているものと同じで、
燭台には長寿の象徴である鶴と亀が描かれている。
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